『ソクラテスの弁明』プラトン

はじめに

いよいよ本題の「ソクラテスの弁明」に入ります。
実はこのブログを書くにあたって何度か通して読んでみたんですが、正直言ってわかるようなわからないような印象でした。というのもここで書かれていることはあまり難しいことではないので理解するのは容易なんですが、現代に暮す俺がこの書物から読み取るべきものがそれで必要十分なのかがよくわからないのです。数千年読まれつづけたものにはもっと恐るべき思想が隠されているのではないか?という過度が期待があったのかもしれません。
そういうわけで、読み残しがないことを確認するために、無謀にも全文要約してみました。要約したから全部理解してる、とは言いません。ただ、要約するために全文章を熟読したのは間違いありません。

要約


1) 私を告訴している人々が言っているのは本当のことではない。私が本当の事を話そう。
2) 私を告訴している人々は大きく分けて2種類に分類される。まずは古くから私を告訴している人達に対しての弁明をしよう。

3) 彼らの私への中傷の主因は喜劇の中に登場する「ソクラテス」にある。それは現実の私ではないのである。
4) 私は人を教育して金銭を要求するようなことは一切していない。私は人を立派にする方法など知らないのだからそんなことはできないのである。
5) 私は実際に、ほんのわずかなことしか知らない。しかし、神は、私以上の知者はいない、と言う。
6) 私は神の言うことが信じられなかったので、私以上の知者を探しあてて神の鼻をあかしてやろうと思った。その結果、世間で知者とよばれる人々になぜか嫌われるようになったのである。
7) 私は、知者を自認する人々の立派な仕事は、どれも知識によるものではなく神懸かりによるものだということに気づいた。
8) そしてある分野に秀でた人は他分野についても知者であるフリをすることにも気づいた。
9) それらのことに気づいた私を、知者を自認する人々は嫌うようになった。そして私はいつのまにか知者と見られるようになった。
10) 私の真似をして、若者たちが知者と呼ばれる人々の「知ったかぶり」を暴きはじめると、被害者たちは私に対して言われのない中傷をはじめたのだ。


11) 次に最近になって私を告訴しはじめたメトレスたちに対する弁明をしよう。彼らは私が青年たちを腐敗させ悪の道に引きずり込んでいると主張している。
12) メトレスは、私だけが人を腐敗させ、それ以外の人々は皆人を良くすると言う。しかし実際はこれとは反対に、限られた人々だけが人を良くすることができ、他の人々は人を堕落させるのだ。
13) もし仮にメトレスの主張どおりに私が他人を悪くしているとしても、それが故意ではないのは明かだ。なぜなら、私がもし誰かを悪人にしたら、私はその人に悪さをされてしまうではないか。わざわざそんなことをするハズがない。
14) また、メトレスは私が「全然神を信仰しない」と主張するが、これは矛盾している。
15) メトレスは私がダイモニアを信仰していることを認めている。もしダイモニアが神であれば私は神を信仰していることになるし、もしダイモニアが神と人間の間に生まれた子であったとしてもそれを信仰するには神の存在を認めなければならないハズだ。
16) 私を有罪にしようとする力は、見えない多数の人々の嫌悪と悪意である。この力はこれまでもこれからも善人を有罪にするものである。私にとっては無罪となることよりもこの力と戦うことの方が重要だ。
17) 私は死を恐れない。なぜなら私は死を知らないからである。知らないものを恐れるのは「知ったかぶり」の一種である。
18) 私は報酬なしに人々に徳を語る者である。これは人間にできることではない。私は言わば神の使いのようなものである。私を有罪とするのであればそれは君たちの方が困るのではないだろうか。
19) 私は個人的な忠告はするが、公な忠告はしない。正義のために戦おうとする者は私人として暮らすべきで、公人として働くべきではない。
20) 私は死を恐れるあまりに正義に背いたりはしないのだ。
21) 私は聞く者がいるのであれば誰であろうと拒まず話をするが、私は誰かの先生になったことなどはないのである。だから誰かが立派な者になろうと悪人になろうと私のおかげでもないし私の責任でもない。
22) そもそも、私の話を聞いた若者やその親が現にここにいるわけだが、彼らは私が悪事を行ったなどと証言していないではないか。
23) 私は無罪になるために演技したりはしない。なぜならそれをしないことが正しいことであり、正しいことを行なうのが国のためだからだ。
24) 無罪になるために、裁判官を説得したりひいきを求めたりするような間違いを犯してはならない。それは神に背くことである。


25) 思ったより有罪票は少なかった。
26) 私が死刑のかわりに別の刑を提案するとすれば、例えばプリュタネイオンでの饗応というのはどうだろうか?
27) アテナイからの追放という案もあるが、しかしアテナイで追放されるに相応しい者は他国でも追放されるべきと考えるべきではなかろうか?
28) いや「他国に行ったら今度は黙って過ごぜ」と言うかもしれないが、私が神に従っている以上それは無理な相談である。よって追放という案は無理である。だから、私からの提案は30ムナの求刑ということにしよう。


29) 私に厚かましさが足りなかったために、私は有罪になった。悪の道で生きるよりは正しい道で死ぬ方を選んだわけだ。
30) 私に有罪票を投じた者たちへ。今後はもっと多くの人々があなた達の問題点を指摘することになるだろう。なぜなら彼らの不満を抑えていた私がいなくなるのだから。あなた達がやるべき事は、人々の口を塞ぐことではなく、優れた人間になることだ。
31) 私に無罪票を投じた人たちへ。あなた達には大事な事を教えよう。私が死ぬことになるこの出来事は実は良い事なのだ。
32) 死とは、完全に存在しなくなるようなものなのか、それとも別の場所での新たなスタートなのか。もし前者であれば、永遠の良き眠りにつけることになるので良い事である。もし後者であれば、永遠の幸福の中で生きることになるのだからこれもまた良い事である。
33) どのみち私は善人なので悪い事にはならないのだ。だから死刑も良い事なはずである。もし私の息子たちが厚かましい人間になったら、どうか彼らを苦しめてやってくれ。それが私の望みだ。では。

メディアは権力である


3) 彼らの私への中傷の主因は喜劇の中に登場する「ソクラテス」にある。それは現実の私ではないのである。
これを現代風に意訳すると

メディアによって報道されている私と実際の私は異なる。メディアの情報を元に私に反感を持たれても困る。
ということですね。大衆がメディアに先導されて自分の「意見」を形成し、誰と戦っているのかわからない戦いに明け暮れてしまうのは、昔も今も変わらないようです。

無知の知」は重要なのか?


8) そしてある分野に秀でた人は他分野についても知者であるフリをすることにも気づいた。
9) それらのことに気づいた私を、知者を自認する人々は嫌うようになった。そして私はいつのまにか知者と見られるようになった。
これは表面的にはわかります。専門家は自分の専門外のことでも知ったかぶるものです。それを嫌悪する気持はわかります。しかしソクラテスは何の為に「専門家は自分の専門外のことをよく知らない」ことを証明しようとしているんでしょう?「専門家が自分の専門外のことをよく知らない」ことを証明したとしてもそれが専門家でないことを証明することにはなりません。しかもソクラテスの問答ではたいてい専門外のことをわざと誘導尋問で引き出してます。その人の知らないことを話題に振って知ったか振りさせ、そして知ったか振りであることを証明し、無知だと笑う。結局はただ揚げ足取りをやってるだけではないのでしょうか?

その揚げ足とりに「無知であることを自覚せよ」というメッセージを読み取るのがソクラテスの読み方なのだとすれば、それはソクラテスの過大評価ではないかと俺は思います。

なぜなら、知ったか振りは現代ギリシア人(アテネ市民?)にも引き継がれているただの性癖だからです。俺はのべ100くらいの外国訪問の中で7〜8回ギリシアに行ったことがあるのですが、他の国の人達とは明かに違うギリシア人特有の頑固さというのを何度も体感しています。例えば、アテネで道を聞くとたいてい丁寧に教えてくれるのですが、自身満々で答えた人の説明が実は間違っていた、こいうことが多々あります。もしその人がラテン系の人であれば「アバウトに答えたんだろうな」という理解になるかと思いますが、ギリシア人の場合はちょっと違っていて、「知らない」というのが恥ずかしいから知っているフリをした、ということなのです。別の例でいうと、「どこから来たの?」「日本だよ」「ああ、いい国だねぇ」「日本の事しってるの?」「もちろんさ」「例えば?」「音楽とか」「どんな音楽知ってる?」「あ…、普段は知ってるんだけど、今は忘れた」のような、あくまで知ってるんだけど答えられない、というポーズを死守するのです。こういうことを書くと俺の偏見だと思うかもしれませんが、自分の経験上はこうですし、この理解がなかったらギリシアでスムーズな行動ができなかったかもしれないと思うこともあるのです。

やや脱線しましたが、そういうわけで「『知ったか振り』なんかするな、堂々と『知らない』と言え!」というメッセージはギリシアではかなり強烈なメッセージであったと想像に難くないですが、俺らがそんなにありがたがるものでもないのではないか、と思うのです。

たいしたメッセージがないとすれば、ソクラテスは「他人の悪癖を指摘して悦に入る」ただのウザい人でしかありません。それを嫌う人が多いのもまたうなずけます。

数の暴力について

では本題です。俺がこの裁判から読むのは「無知の知」でも「なぜ死を選ぶのか」でもありません。「多数決の恐しさ」です。

客観的に見ればこの裁判は「原告=知ったか振りする知識人」と「被告=知ったか振りをあざけ笑う変人」というどちらも鬱陶しい人たちの闘争であるということがわかりました。被告は鬱陶しい(生理的に嫌いである)から揚げ足取りをし、原告は鬱陶しい(邪魔である)から告訴した。鬱陶しさが等価であるならば、やはり批判されるべきは原告でしょう。

世の中には生理的に嫌いであったり邪魔だと感じる人や行為は多々あります。それは人間同士のコミュニケーションの上では避けられない感情でしょう。しかし基本的にはそれはなかなか排除できません。なぜなら好き嫌いは人によるので排除のルールが定められないからです。

ところが、多数決ではこれを排除することができます。より多くの人が嫌う人(もの)は多数決により排除できます。少数の人が好きだと感じるけれども多数の人が嫌いだと感じる人(もの)は、全会一致では排除できませんが、多数決では排除できます。

何の話をしているのかわからない人もいるでしょうか?児童ポルノ法改正の話です。

俺は現行児童ポルノ法については条件付で支持しますが、非実在青少年の描写に制限を設けるという改正案のほとんどには反対です。たしかに俺も非実在青少年の性的描写に嫌悪感を抱くことは多々あります。しかし、それと法律で禁じることとは全く別です。改正に向かう人の感情には「嫌いなものを排除しよう」というソクラテス裁判の原告と同じ数の暴力を感じます。そして多数決そのものの暴力性についても危機感を抱きます。

また、俺は喫煙者ではありませんが、現在の喫煙を禁じる動きについても同様に危機感を感じています。

児童ポルノでは「犯罪助長」、喫煙では「健康被害」が争点となり規制が進行されているわけですが、規制派の原動力になっているのは「嫌いであるから排除しよう」にあると俺は思います。「犯罪助長」も「健康被害」も後付けでしょう。俺はターゲットが何であれ「嫌いなものを法で規制し排除しよう」とする数の暴力には反対です。ただし俺自身が児童ポルノ愛好者でも喫煙者でもない以上、そういう人に同情はしつつも、最前線で戦う立場にはいません。

そういうわけで、『弁明』に読むべきものがあるとすれば、数の暴力という民主主義の問題点を最初に指摘した書物だ、という点にあるのではないか、と俺は思うのです。しかも民主制を支持しているソクラテスによって。民主主義は近代に勝ち取ったものではなく古代ギリシアにすでに存在し、その問題点もまたすでに古代ギリシアで指摘されていた。民主主義下に生きる(と言っても現代日本が民主主義国家として機能しているかどうかについてはここでは留保したいんですが)俺たちにとって、もし今後も民主主義でいくのであれば早急に考えなければならない問題がここにはあるのではないでしょうか。