プロタゴラス断片

はじめに

プラトン著『プロタゴラス』の前に、ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)プロタゴラスの章を読んでみます。

ソクラテス以前の哲学者 (講談社学術文庫)
廣川 洋一
講談社
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プロタゴラスソフィストの中心人物ということもありかなり有名な人物で著作も多数ある(あった)わけですが、残念ながら現存する著作物は一つもなく、ここに全文書ける程度の断片しか残っていないようです。

すぐ後の時代には体系家で収集家のアリストテレスがいるわけですが、彼の収集対象にはプロタゴラスは入っていなかったようです。もちろんアリストテレスプロタゴラスを知らなかったわけはないですし、その頃にすでに著作が失なわれていたとも考えられません。プロタゴラスを始めとするソフィストらはソクラテスプラトンとは対立関係にあったわけで、そのためアリストテレスやその系列の学者によって故意に葬り去られたか、そうでなくても彼らの保管対象から外されたことで消失してしまったのではないか、と思わずにはいられません。

そのプロタゴラスの断片を2つ。

相対主義者としてのプロタゴラス


人間が万物の尺度である。すなわち、そうあるものどもについては、そうあるということの、そうあらぬものどもについては、そうあらぬということの。

とても有名なテキストです。別に難しいことは言ってなくて、


どれが「良い」、どれが「悪い」というのは一概には言えなくて、人によってそれが「良い」であったり「悪い」であったりしますよね。「綺麗/汚い」でも「美味しい/不味い」でも同じです。それを判断しているのは人間で、どう感じるかは人それぞれです。

と、このような話です。現代でもすんなり理解できると思います。しかしこのテキストをもって彼を相対主義者として批判することも可能です。たとえば、相対主義に陥ると「なぜ人を殺してはいけないの?」に答えられなくなったりします。

相対主義って何?」という問いに私が答えるとしたら、「あなたの意見を押しつけることはいけない。考え方は人それぞれ」という考え方、と答えます。これはやや意地悪で否定的な言い方です。もう少し肯定的な説明をするとしたら、「人それぞれ」な事象について「最終判断は各自のものだけど、その判断材料としてその『それぞれ』をお互いに出し合って吟味することには意味があるよね」という考え方、と答えます。これならだいぶ印象は変わるでしょうか。

グローバル化した現代に多様な文化を受け入れるためには相対主義は必要なものです。でもその一方で「これが正しい」と言えない思想というのはあやういし、実効性も低いと言えます。

よく何かの議論の最中に「まあそれは人それぞれだよね」で終わらせてしまう人がいます。それを言ってしまったら議論にならないわけだし、その「人それぞれ」の「それぞれ」を議論しようとしているわけですが、「人それぞれだから議論しても意味ないよ」に持って行って話を終わらせてしまう。私の経験で言うと「人それぞれだからこそ議論しよう」となると実がある結果になり、「人それぞれだからその話をやめようよ」となると不毛な結果になります。

これは私自身の反省からあえて書きますが、相対主義を実用的な場面で持ち出す時には気をつけなければなりません。ある程度自立した見解を持った人同士ではそれはかなり有効ですが、批評的な思考を持っていない人との世間話の中に持ち込むとうまくいきません。「最終判断は各自だけどあえて出し合う」という前提が共有されていないため「結局、結論として何が言いたいのかわからない」とか「私の趣味にとやかく言われたくない」と言われたりします。

このように紀元前400年代に「人間が万物の尺度である」とプロタゴラスが語ったことでスタートした(のかどうかはわかりませんが…)相対主義は、今でも私たちの社会の中に乗り越えられないまま存在しています。

この辺のテーマについては、このブログがこの先ずーっと続いて20世紀のいわゆる「ポストモダン」まで辿り着いたら、また考えたいと思います。

無神論者としてのプロタゴラス


神々については、彼らが存在するということも、存在しないということも、姿形がどのようであるかということも、私は知ることができない。

これをもってプロタゴラス無神論者とするのはどうかと思うし、プロタゴラスを「無神論者として処刑された」とする説も、後にキリスト教的な発想で付け加えられたんじゃないかと邪推してしまいたくなります。いずれにしてもここで言っているのは神の有無なんかではなく、現代の視点で言えば「ただの認識論」です。パルメニデスの「『ある』とは何か?」の延長線上にあるとても重要で貴重な論考ではないかと思うのですが、この断片しか残っていないのが非常に残念です。

まとめ

これらの断片だけを見ても、プロタゴラスが現代でも通用する重要な論考を行なっていたことは間違いないし、それはきっとパラドクスで議論を煙に巻くソクラテスの様子を描いたプラトンの著作よりもよほど哲学的に重要だったのではないか、と思わずにはいられません。「アリストテレスがもっと相対主義的な思考を持っていたら、批判対象の書物も残していたんだろうになあ」と相対主義を肯定しつつこの章を終わりたいと思います。