『クリトン』プラトン

はじめに

『クリトン』は、角川文庫の『弁明』に収録されているのですが、実は一年前に読んでその時にメモを残したまま放置していました。
今さら読みなおすのも何なので、以下その時のメモをそのまま掲載します。あまりまとまってないように思いますが…。

クリトン

死刑判決を受けたソクラテスがクリトンに脱走の提案をされる話。

クリトンがソクラテスの脱走を手助けしようとする理由は、それをやらなければ(クリトンが)大衆から非難されるからだ、という。また、そもそも裁判に発展する過程でそれを阻止する行動に出なかった(?この辺は実はよくわからない)ことも恥ずかしく思っているという。ソクラテスはそのクリトンの自己保身的な部分を指摘することはなく、ただクリトンの誘いを断わるための問答を開始する。


人間どもの思いなしのすべてではなく、そのあるものは重んじなければならぬが、そのあるものはそうでないということ、またすべての人間どものではなくて、ある人間どもはそうしなければならぬが、ある人間どものはそうではない、ということは申し分なく言われていると君には思われないか。

要するに、「識者の意見は重視し、無知な大衆の意見は軽視するものだよね?」とソクラテスはクリトンに問うている。ここはわかる部分もあるが、ちょっと俺にはひっかかる。とくに「体操選手は大衆の賞賛ではなく体操教師の賞賛に喜ぶものだ」という例がピンと来ない。時代性なのか、それとも体操選手の本音はそんなものなのか。いずれにしてもそれが正しいかどうかではなく、「大衆の意見は軽視してもよい」という結論がまず必要とされているのでこうなっているのだろう。で、クリトンはこの「識者重視大衆軽視」に同意する。すると「たった今、大衆の意見を軽視すべきとした君が、大衆からの非難を恐れるのはおかしい」と矛盾を付く。「識者はクリトンがソクラテスを手助けしなくても非難などしないし、大衆が非難したとしてもそれは軽視するものだから問題ない」とソクラテスは言う。

次にソクラテスはクリトンとの間で以前合意した(と思われる)見解を持ち出す。

  • 最も尊重しなければならぬのは生きることではなくて、善く生きることだ
  • 善く生きることと立派に生きることと正しく生きることとは同一である

これを出発点として、脱走することは不正であるので善く生きることにならない、という結論を導き出す。またさらに不正に対して不正をし返すのもいけない、という合意によって、仮に裁判が不正であったとしてもそれに不正で応えるのはいけない、という結論が導き出される。この「不正に対して不正で応えるのはOK?」については面白いテーマで現代でも議論になりそうである。「無法者を裁くのに法に従う必要はない!」のような暴論は現代でも良く聞かれる。

この後は一旦すでに論破したかに思える話を繰り返しているように読めるが「法律が不正であるとしたら、それに従わないのは是か非か」という議論が展開される。なかなか面白い話で、ざっくり言うと「ソクラテスアテナイは社会契約を結んだのだからソクラテスは法律を守るべきなのだ。もしこの法律が気にいらないのであれば、アテナイから出て別の地に行くことがこの70年間可能であったし法律にもそれが書かれている。にもかかわらずそれをしなかった。それがこの法律に合意している証拠である」という話。これは俺たちが日本の法律に対して本当に合意しているのかを考える時にもいいヒントになるだろう。そもそも現代日本で俺たちは、国民になるための資格検査や社会契約を行い自らの意思で選択したのか?という問題だ。この国の法律が気に入らなければ出ていくチャンスはあったのか?という問題だ。が、そこは現時点で論じるのは時期尚早だろう。このブログでルソーの『社会契約論』を論じる時まで待つとしよう。

クリトンにはソクラテスを説得することはできない。それはクリトンに説得力がないからではなく、ソクラテスが最初からクリトンを論破するために会話を行なっているからだし、意地悪く言えば、プラトンがそのように書いているからである。