『プロタゴラス』プラトン

はじめに

ソクラテスソフィストとの対話を読みたい、と思い『プロタゴラス』か『ゴルギアス』どちらにするか迷ったのですが、論客の知名度から言ってプロタゴラスだろうということでこちらにしました。

が、結論から言うとこの著作、ドキュメンタリーとしては良作ですが哲学としては物足りないです。結局『ゴルギアス』も読み始めました。プラトン哲学をちゃんと読みたいのであればそちらの方が面白いと思います。

概要

プロタゴラス』の主要テーマは「徳は教育可能であるか?」です。これはソクラテスソフィスト批判の根幹にかかわる問題です。で、これについてプロタゴラスは「可能である」、ソクラテスは「不可能である」という見解から話を始めます。

途中からソクラテスお得意の「矛盾を突いて揚げ足を取る」手法が炸裂して議論は混乱します。この作品に限らず、プラトンの描くソクラテスはいつも「相手の矛盾を突いたら勝ち」というスタイルで議論を展開しますが、それは相手が完璧ではないことを証明はできても自分が正しいことの証明にはなりません。ここでもこのソクラテスの揚げ足取りによって議論はあらぬ方向へ展開します。

パラドクスの研究であればこれを詳細に読み解くところですが、「徳は教育可能であるか?」について興味を持って読んでいくとこの中盤は退屈です。

そして話は結論に向かうわけですが、ここではプロタゴラスが矛盾を認めた形になります。そのため「徳は教育可能であるか?」というテーマについてはプロタゴラスは「不可能である」に至るわけですが、一方でソクラテスは「可能である」に転向したように見えます。こうして二人の議論は終了します。

教育と洗脳は何が違うのか?

冒頭部ではプロタゴラスに会いに行こうとする若者に注意を促します。要約すると


「君が誰かに金を払って教えを請う場合、それは何を期待しているのか?例えば医者に教えを請う場合には医者になりたいのだろう。彫刻家に教えを請う場合には彫刻家になりたいのだろう。ではソフィストに教えを請う場合には?君はソフィストになりたいのか?」
「違います。」
「ということはソフィストに教えを請うというのは、医者や彫刻家に教えを請うのとは違う性質のものだ。君は専門技術を学ぶのではなく一般教養を学ぶのだ。」
「はい。」
「では、それをプロタゴラスから学ぶのが適当であるかどうか君は判断できるのか?君が魂を彼にゆだねてしまったら、もう判断はできなくなる。」

ソクラテスは技術を教える「教育」に対して、魂にかかわる学識や徳を教える「洗脳」(という言葉は用いていない)が危険であると警鐘を鳴らします。


これが飲食物だったら、卸商人や小売商人からそれを買っても、別の容れものに入れて持ちかえることができるし、飲んだり食べたりしてよいものといけないもの、またその量や時期などについて、識者を呼んできて相談することができる。だから、それを買うのにたいした危険はないわけだ。だが、これが学識となると、別の容れものに入れて持ちさるわけにはいかない。いったん値を支払うと、その学識を直接魂そのおのの中に取り入れて学んだうえで、帰るまでにはすでに、害されるなり益されるなりされてしまっていなければならないのだ。(314-AB)

ソクラテスソフィスト批判は概ね「魂にかかわる教育である」点と「金を払って教えを請う」点の2点に集約されます。しかしソクラテス自身も魂にかかわる教育を行なっているわけです。これに対してはソクラテスが対価を受けとっていないことが自己正当化の論拠になっています(『ソクラテスの弁明』)。しかし「魂にかかわる問題であっても対価を払わらなければ問題ない」という説明は私の読んだ範囲内には見当りません。このあたりから類推するに、ソクラテスソフィスト批判においては論理的な説明はすべて後付けで、基本的には嫉妬やルサンチマンを動機としていると考えてよいのではないかと思います。

だとしても、この「洗脳」に対する警鐘はかなり鋭いと思います。

また「学ぶ」という行為に対して、

  • 医者や彫刻家のような「その道の専門家」から「その人のようになりたい」と思って学ぶ行為
  • 教育者のような「教えることの専門家」から「その人自身が目標ではない」と思って学ぶ行為

の2種類がある、という指摘も重要でしょう。学校教育があたりまえとなった現代では後者を否定するソクラテスの主張は通りにくいでしょうが、それだけに問題提起としては有効だと思います。例えば、この二者を混同するという倒錯が現代にはかなり見られます。「教えることの専門家」から学んで「その人になりたい」と思い「教えることの専門家」になる、ということです。この関係性には専門家が介在しません。現代の教育制度はそういう形で成り立っています。

この現象がさらにエスカレートして、影響を受けるとすぐに「その人になりたい」と思ってしまう現象は各所で見られます。「その人から学ぶことと、その人のようになることは違う」ということについて、今一度きちんと考えた方が良いのではないでしょうか。

徳性は教えることができるのか?

プロタゴラス』の中の議論は言葉の定義があいまいなので、あまり厳密に検証することは重要ではないと思います。例えば「徳」と「徳性」、「徳」と「正義」、「徳」と「学識」は場合によって同じ意味で使われたり、違う意味で使われたりしています。またソクラテスの反論もいまいちクリティカル性に欠けるものが多く細かくとりあげるほどのものでもないと思います。

そこで、ソクラテスよりはプロタゴラスの主張の部分を紹介します。


もし誰かが実際にはそうではないのに、自分がすぐれた笛吹きであるとか。あるいはほかの何らかの技術に関してすぐれているとか主張するならば、人々は嘲笑するか怒るかするだろうし、身内の者はその人のところへ行って、気がへんなのではないかといって叱りつけることだろう。ところが、正義をはじめとして、そのほか国家社会をなすための徳性においては、かりにある人が不正な人間であることを人々が承知していたとしても、もしその人が公衆の前で、自分で自分についてほんとうのことを言うならば、(中略)狂気の沙汰とみなされるのである。そして、人は誰でも、実際にそうであろうがなかろうが、自分を正しい人間であると言わなければならない 323-AB

要約すると


技術については不正を不正であると認めるのが正しい。徳については不正であることを認めないのが正しい。

これはかなりぶっちゃけてますね。「間違っていたらゴメンナサイと言う」を美徳とする日本の文化とはかなり違っていますが、私の経験では(誤解をおそれずに言うと)ギリシアでは現代でもこのように「自分の誤ちは認めず自分は常に正しい」というのを美徳とする傾向にあります。


不正な人々を懲らしめるということはそもそも何を意味するのか(中略)、その目的は未来にあり、懲らしめを受ける当人自身も、その懲罰を目にするほかの者も、二度とふたたび不正をくり返さないようにするためなのである。そしてそう考えている以上。彼は徳というものを、教育可能のものと考えていることになる。とにかく、悪いことをやめさせようと思えばこそ、懲らしめをあたえるのであるから。

これは要約不要ですね。徳は後天的なものであるという証明です。これは懲罰の原則として現代でも通用するものです。ただし死刑についてはこれでは説明できません。

この他にも、プロタゴラスは「優れた人間が優れた教育者であるとは限らない」という説明をソクラテスに対して行ない、「教育する専門家」の可能性について主張をつづけます。これらはどれも非常に明快でソクラテスのひねくれた反論よりもよほど説得力があります。

国語とは何か?

ふと気になった場面。


あらゆる人々が事実上、それぞれの能力に応じて徳を教えているので、とくに誰かが徳の教師であるようには君には見えないからなのだ。それはちょうど君が、ギリシア語をしゃべることを教えるのは誰なのかをさがしてみても、誰ひとりそういう特定の教師はみつからないのと同じことだ。

これは「へぇー、当時はギリシア語を教える人っていなかったんだねー。現代日本なら『国語』教師がいるけどねー。」と思いながら読んでいたんですが、では、そもそも「国語」って何なんでしょう?

ここでは問題提起だけ。

まとめ

この作品はソクラテス前期のものだということで、プラトンの創作度はわりと低いのではないかと思います。それもあってかかなり臨場感があり、まるでテープ起こしして書いたかのようなグダグダ感もあり、楽しく読めました。ただ、最初にも書きましたが論理的な緻密さや哲学的な面白みには欠けると感じました。

前回も書きましたが、プロタゴラス自身の思想はかなり重要で示唆に富むものだったと思われます。にもかかわらずその著作が残っていないのは、アリストテレスが哲学の正史に加えなかったからなのはほとんど間違いないでしょう。そのことがとても残念です。

次回は『ゴルギアス』の予定です。