『パルメニデス』 プラトン

はじめに


プラトン中期のそれも後の方に書かれた著作です。なので、登場するソクラテスはすでにソクラテスではなく、プラトンイデア論を語るために用意された架空のキャラクターです。また、パルメニデスやゼノンとの対話形式になっていますがそれらの会話もすべてフィクションであると考えるべきでしょう。

俺の場合、時代順に読もうと試みて先日パルメニデスの断片を読んだばかりなので、プラトンイデア論はもちろん未読、まだ解説書レベルでしか理解していません。今回はパルメニデスを追って来たのですが、本来なら他のプラトン著作の後に当った方がいいのかもしれません。しかし書かれた順よりもテーマつながりで読んだ方が面白そうなので、イデア論そのものについての検討はまたあらためるとして、今回はパルメニデス視点で読んでいきたいと思います。

で、プラトンの主著の多くが岩波文庫に収録されている中『パルメニデス』はなぜか文庫化されていません。

それはなぜなのでしょうか? 読んでみたらなんとなくわかりました。後半が冗長すぎて一般向けではないのでしょう。今回俺もこの著作の構成をざっと見て、全部読む必要はないな、と思いました。

ざっくり言うと、以下のような構成になっています。

前半のイデア論の部分はゼノンとパルメニデスの理論に対し、ソクラテスイデア論を導入しようと試みるシーンです。後半(と言っても分量としては8割ほどを占める)はそのソクラテスの議論の大雑把さを指摘するパルメニデスが、哲学演習を実演するという不思議なシーンです。

この延々と続く演習が、文庫向きではないのでしょう。これは一般の読者にとっては苦痛なのではないでしょうか?

このブログは「IT系エンジニアが」と銘打っているのであえてIT用語で解説するならば、この後半部分は、boolean型の引数を3つ持つテスト用関数test()に対して、すべてのパターンのテストを行ないその理論が正しいかどうかを検査しているのです。

//何言語だよ、というつっこみは置いといて
funciton test(bool a, bool b, bool c){
  //テスト内容
  return hoge;
}

print test( true, true, true );
print test( true, true, false );
print test( true, false, true );
print test( true, false, false );
print test( false, true, true );
print test( false, true, false );
print test( false, false, true );
print test( false, false, false );

こんな感じです。これを全部追って行くのはかなり不毛なので、俺はこの後半部は最初の演習1だけ読んでどういうことをやっているのか理解すれば十分だと判断しました。

ゼノンvsソクラテス

このプラトンパルメニデス』の残念なところは、パルメニデスの「存在は一である」やゼノンによるその擁護が具体的にどのような主張であるかがきちんと記されていない点です。ゼノンが著書を朗読しそれに関してソクラテスが質問をする形になっていますが、そのゼノンの著作は現代には残っていないし、元になっているパルメニデスの思想に関しても断片だけでは十分にわかりません。このプラトンが書いたパルメニデスやゼノンの言葉をどれだけ本人たちの言葉ととらえて良いのかすらわからないのに、肝心の主張がソクラテスの質問や反論から類推するしかないというのは非常に残念でなりません。

この冒頭のゼノンの朗読とソクラテスの質問の部分は要約すると


ソクラテス:まわりくどい言い方をしてるけど、君が言ってるのは要するにパルメニデスが言ってることと同じだね?
ゼノン:はい、実はそうです。
ソクラテス:それにオレの理論を組み合わせてみないかい?
ゼノン:・・・。

と、こんな感じです。・・・の部分で弱ったゼノンにパルメニデスが助け船を出してくれるわけですが、それまでに展開されるこのソクラテスのオレ理論がイデア論です。

パルメニデスvsソクラテス

イデア論初心者の俺がこの『パルメニデス』を読解するにあたってイデア論とはだいたいこんなものだろうという理解に使ったのがオブジェクト指向です。ここではオブジェクト指向とは何かという話は省略します。今となってはイデア論よりはオブジェクト指向の方が判ってる人が多いであろうと信じて。

では解説。パルメニデスソクラテスに言います。


「しかしまあそれはそれとして、どうかぼくに次の点を答えてくれたまえ。つまりきみの主張だと、何か形相といったものが存在するときみには思われるというのかね。そしてここ(われわれの周囲)にあるもの、すなわち形相とはちがう他のものは、その形相を分取することによって、その形相がもっている呼称を[自分たちも]もつようになる。・・・」

パルメニデスは「存在は一である」と言っているのですが、ソクラテスは実物の存在と形相の存在があると主張します。しかしソクラテスは「だから存在は一つではない」と主張するのではなく


形相の存在がまず一つあって、それを分有する(部分としての?)実物の存在がある。だから時に多数に見えることがあるものも全体では一つである。

という風に自分の理論でパルメニデスの主張を補強しようとします。ここではパルメニデスの「存在は一である」がどういう意味であるかすらよくわからないので、かなりあてずっぽうに読んでいくしかないんのですが、断片で読んだことを思い出しながら考えると、


ある(存在)とない(非存在)があるのではない、存在のみがある。つまり存在は一である。

ということなのでしょう。そして、きちんとした説明がないので不明ですが、それがなぜか論理的飛躍をおこしてか「私とあなたの2人が存在する」のようなことも否定されているのがこのパルメニデスの主張のようです。ソクラテスは形相の存在を主張し、


私とあなたの2人が存在するのではなく、形相(人間)が存在する。つまり存在は一である。私もあなたも人間という存在を分有しているにすぎない。

の用に考えることで「存在は一である」を否定することなく複数の存在を説明しようとしているようです。しかしパルメニデスは「分有してる以上存在が複数になってしまう。おかしい」とソクラテスの主張を受け入れません。この辺からパルメニデスソクラテスの話が噛み合わなくなります。

ここからはオブジェクト指向を使って説明していきます。わからない人はすみません。

パルメニデスはクラスとインスタンスをごっちゃにして「一つである」と主張しているのに対し、ソクラテスが言っているのはクラスは一つでもインスタンスは複数ありうるんだ、ということです。それをパルメニデスは「複数のものに帆布をかぶせて一つだと言い張っているだけだ」と批判しています。ここでのパルメニデスの例え話は実体(インスタンス)の話から徐々に形相(クラス)の話に移っているようですが境目がはっきりしません。「帆布をかぶせて一つになったものがさらに複数あってそれに帆布をかぶせてもっと大きな一が・・・」のような無限ループは形相(ソクラテスは「それは観念です」と後でつけ加えます)の話であればあまり問題ないように感じます。それはまさにクラスの継承の話です。おおもとにObjectクラスがあって、サブにCreatureクラスがあって、そのサブにAnimalクラスがあって、そのサブにMonkeyクラスがあって、そのサブにApeクラスがって、そのサブにHumanクラスがある。Humanクラスのインスタンスが私とあなた、ということです。つまりオブジェクト指向的にパルメニデスの「存在は一である」を説明すると、


すべてはObjectクラスである。

ということになります。これがソクラテス(に語らせたプラトン)のイデア論的解釈でのパルメニデスの「存在は一である」の理解です。

さらに進めます。パルメニデスいわく


「いまわれわれのうちの誰かが誰かの主人もしくは召使であるとすれば、それは<まさに主人である>ところの主人自体というようなものの召使ではきっとないだろうし、またわれわれのところの主人が<まさに召使である>ところの召使自体の主人であるというようなこともないだろう。そうではなくて、人間の人間に対する関係においてこの両者なのである。・・・」

とあります。これは「召使インスタンスは主人インスタンスの召使なのであって、召使インスタンスが主人クラスの召使であったり、主人インスタンスが召使クラスのインスタンスであったりするわけではない」ということです。これにはソクラテスも同意しますが、つづけてパルメニデスはこう展開します。


「それなら、知識もまた」と言った。「まさに知識であるところの、自体としての知識なら、まさに真であるところの、かの自体としての真についての知識だということになるだろう」

「ところが、われわれのところにある知識となると、これはわれわれのところにある真についての知識ということになるだろう。そしてさらに、われわれのところにある知識というのものは、いずれもそれぞれわれわれのところにある事物のそれぞれの知識であるということになるだろう」

「ところがさて、形相というものは、それ自体としては、きみの同意しているように、われわれの所有とはならないのであり、われわれのところに存在することはできないものなのだ。」

これは「知識クラスは真クラスの知識である」「知識インスタンスは真インスタンスの知識である」「クラスはインスタンスとしては存在しない」といっているわです。その結果


われわれは真の知識を持ちえない。

と言っているわけです。これには「真クラスというのは何ぞや?それは定数だからクラスでもインスタンスでもないのでは?」とか「クラスメソッドってあるよね。」とかオブジェクト指向的にはいろいろ言えるわけですがそれはおいておきましょう。とにかく「われわれは形相の世界の真(神)にはアクセスできないし、知りえない」と言っているわけで、話の筋はだいたい通っているように見えます。

ところがここまで緻密な論理展開をしているパルメニデスが、ここでかなり飛躍してしまいます。


「そうすると、いま神のところに主宰する力と知識との、いま言われたような最高に精確なものがあるとしても、その主宰力はかのもののそれであって、われわれの主宰となるものではけっしてないだろう。また知識にしても、われわれを知るのにも、またわれわれのところにある他の何かを知るのにも用をなさないだろう。いや、そればかりでなく、同様にしてわれわれもわれわれのところにある支配の権力をもってかの神々を支配したり、われわれのところにある知識をもって神々に属することがらの何か一つでも知ったりすることはないのだし、かの神々もまた神々で、同じ論法で行くと、われわれの主宰者となることもなければ、人間のごたごたを知ることもないのだということになる、たとえかれらが神々であるとしてもだね」

これは


われわれは神々のことがわからない。だから、神々はわれわれのことがわからない。

と言ってるわけです。いつのまにか神はクラスで我々はインスタンスということになってしまってますし(神クラスと神インスタンスという話にはなぜかなっていない)、インスタンスがクラスをわからないからクラスがインスタンスをわからない、とは限らないわけですし。

そういうわけで最後の最後に論理展開がおおざっぱになったパルメニデスですが、うやむやになったままなんとなく説得されてしまったソクラテスも持ち帰り検討事項ということで了解してしまいます。

演習

ここからはパルメニデスアリストテレスによる演習がはじまります。これは前述のとおりテクニカルなテストです。内容は省略しますが、読んでいて疲れます。一応テスト1とテスト2は3回読みました。

まとめ

イデア論というのはこのようにインスタンスのことしか考えていなかったところにクラスを導入した、と考えたらわかるのではないでしょうか? ただし、くり返しますが、俺はまだこの本でしかイデア論に触れていないので、非常に間違ったことを書いている可能性はあります。ご了承ください。

で、俺にとってはプラトンよりもパルメニデスのことをもっと知りたいわけですが、この本からはこんな程度かなぁ、と思います。